おれんじサポートチーム えがお。
先日、包括支援センターの担当の方から提案していただいた「認知症初期集中支援制度」オレンジチームの方との面談がありました。介護福祉士さんと看護師さんが2名でいらっしゃいました。
面談の時間、母は突然シャワーを浴びる、と言い出し、驚きましたが、母がお風呂にいる間に部屋まで入って頂きました。
母との面談では、日常生活のこと、趣味のこと等雑談を交えながら、お話ししていかれました。
最初は怪訝そうにしていたものの、時間が経つにつれ、よ~くしゃべる母。隣で聞いてた私がびっくりするほどでした。
話の中で、何度か
「認知症の予防のためにこの地域をまわっているので、近くに来た時に寄らせてもらってもいいですか?」
と、お話しいただいたのですが、その度に、
「わずらわしい。結構です。」
と、頑なに拒否。最後まで受け入れませんでした。
面談の後、包括支援センターの担当の方から電話があり、後日、担当者間で会議をして、今後のサービスの利用について検討されるとのことでした。
認知症であることはもちろん、自分はまだ若い、高齢者ではないと思い込んでいる母がサ介護サービスを受け入れるとは思えません。なかなか難しい状況が続きます。
相変わらず母は車の鍵を取り上げた事だけは忘れません。今回もまた怒り出しました。
いつまで運転しちゃダメなんだ?
これからどうすればいいか、言ってみろ。
軽自動車を買うからな。
そして、最後には決まって脅すように、
このままどこへも行かず運転もしないとボケるからな。
そんな脅しには屈しません。車の運転しないことが認知症の原因ではないのですから。
友人の一言。
母の状況を伝えている友人が一人だけいます。いつも私の愚痴に付き合ってくれる大切な大切な友人。友人のご家族も大変な時なのに私の要領を得ない話をいつも聞いてくれます。そして、いつも私を励ましてくれます。
世の中には私なんかより大変な思いをしている人がたくさんいるのだから、私も頑張らなくっちゃ!
何気なく言った私の言葉に、友人が怒りました。
頑張ったらダメ!!
頑張ることはないの。
今も頑張っているんだから。
頑張ることをサボる事を考えないと。
…と。
はっとしました。
最近の私は、ひたすら「がんばらなくっちゃ」「大丈夫」を繰り返していました。
そんな様子が友人には危険なサインに見えたようです。
そうやって私の事を見ていてくれる人がいる。私の事を心配してくれる人がいる。そう思えるだけで、心が軽くなりました。
本当にありがとう。
いつもいつも…
いつか私もあなたの力になりたいと思っています。
ドキドキ…。
車の鍵を取り上げて以来、母の癇癪が続き、朝晩の薬飲んでね電話の時間が近づくと、心臓がドキドキします。嫌なドキドキ…。
今日は電話するのをサボってしまおうか、いやダメ。でも…とスマホに母の番号を表示したまま、通話ボタンを押す事が出来ないで時間だけだ過ぎてしまいます。
エイヤ!!
と気合いを入れて通話ボタンを押します。電話に出た母は機嫌良く、
「迷惑かけて悪いねぇ」
と笑って言います。
電話を切った後、大きなため息が出ます。今回はは乗り切った…
「大丈夫、大丈夫、大丈夫…」
気がついたら、こう呟くのが癖になっていました。呪文のように呟いて自分に言い聞かせています。
大丈夫じゃないって、自分で自覚しているから、「大丈夫」って思い込もうとしているのかもしれません。
癇癪
車の鍵を取り上げたことに対しての母の怒りは相変わらず。おさまる様子もありません。朝晩の薬飲んでね電話も、最初は「分かった~」と素直に言うものの、電話の後半には必ず、車の話になります。
いつまで車の運転をさせないつもりだ。
絶対に許さない。
生きていても仕方ないな。
ここ数日はこの台詞が定番です。
ふと、母のこの怒っている状態を言い表す言葉を思いつきました。
『癇癪』
怒鳴り散らす、すごい勢いで怒る、等々…どれもしっくりいかない気がしていました。
ふと思いついた言葉が「癇癪」。
母の状況は、まさしく「癇癪を起こす」がぴったりです。感情のコントロールが出来ず、頭に血が上って興奮した状態で大騒ぎ。
母の中には「自分」しかないのでしょう。相手を思いやる心は忘れてしまったようです。こんな事を言ったら相手を傷つけてしまう、こんな言葉は言ってはいけない、普通であれば自然に出てくる相手を思う気持ちが、母の中には出てきません。自分の不満、怒りをぶつけることだけ。
それもすべて「アルツハイマー病」のせい。そう心から思える日が、いつか私にも訪れるでしょうか。
車の運転とアルツハイマー病。
母は、昔から運転が好きで、自分は車の運転が上手い、と思っています。私たち子どもから手が離れてからは、パートで宅配弁当の配達をやっていました。誰よりも運転には自信を持っている母。
でも…
いくら運転に自信を持っていても、介護認定を受けた今、今まで通り運転させるわけにはいきません。
自損事故で母だけが痛い思いをするのならそれは自己責任でしょう。
ですが、他の方に怪我をさせてしまう、もっとひどい事に命を奪ってしまうことがあったら、それはただでは済まされません。
車は、あっという間に命を奪う凶器になってしまうのです。
アルツハイマー病の診断を受けてから、事あるごとに、運転はしないように話をしてきました。そのたびに、母は返事もせず、私の話には一切耳を貸しませんでした。しばらく運転していなかった車を運転している様子がみれらたので、私は決断しました。
車の鍵を取り上げる。
車の鍵はスペアも含めて、私が持ち帰りました。
その様子を見ていた母は激怒して、怒鳴りだしました。
ふざけるな。
バカヤロウ。
車が無かったら買い物にも行けない。
何も食べずに死んでやる。
泣きながら、私を車まで追いかけてきました。そんな母を無視し、私は帰宅しました。帰宅途中、母から電話がありましたが、電話には出ませんでした。
その後、すぐに弟から電話がありました。
「母が死ぬと大騒ぎしている」と。弟に鍵を取り上げた事を話すと、弟も母には、買い物は歩いてもいける事、スーパーもコンビにも徒歩で行けると話してくれた、とのことでした。
「こうするしかない、このまま運転させるわけにはいかない、間違っていない。」
と、頭では分かっていても、涙があふれました。
薄情な娘、母にあんな顔をさせてしまった…自分を責めるばかりでした。
高速で4時間。自宅に帰るとへとへと。体力的な問題よりも精神的に疲れた…というところでしょうか。玄関に倒れこみ、そのまましばらく動けませんでした。
次の日。
母から電話がありました。電話の向こうでものすごい勢い怒っていました。
ふざけるな。
ばかやろう。
車の運転が出来ないと買い物にも行けない。
何も食べず死んでやる。
もう構うな。
親子の縁は切る。
二度と帰って来るな。
絶対に許さない。
情けない。
ボケてると思ってるかもしれないけど、自分は正常だ。友達はもっとひどいのに運転している。
運転は出来る。問題ない。
ものすごい剣幕。
言葉を挟む余地もなく一方的に怒鳴り散らして、一方的に電話を切られました。
あまりの様子に私は呆然として、母の怒声を聞きながら涙が止まりませんでした。
こちらから電話をかけ直しても、電話には出ず、数分後に母から電話がかかってきて、私の話は一切聞かずに、怒鳴り散らして一方的に電話を切る。これが4、5回続きました。
私はどうする事も出来ず、母の怒声を聞くしかありませんでした。
10分程経ってこちらからかけなおした何回か目の電話に出た母は、「どうした~?」とご機嫌な様子。10分前まで怒っていたのは嘘のようにすっかり忘れてしまっていました。私が泣きながら母の言葉を伝えても、まったく覚えておらず、「そう。それは大変だったね」と他人事ように笑っていました。
その後も、思い出したかのように、何かのスイッチが入るかのように、車の鍵を持ち帰った私を怒鳴り散らす電話が何度もかかってきます。いつも母の台詞は同じ。
ふざけるな。
ばかやろう。
車の運転が出来ないと買い物にも行けない。
何も食べず死んでやる。
もう構うな。
親子の縁は切る。
二度と帰って来るな。
絶対に許さない。
情けない。
ボケてると思ってるかもしれないけど、自分は正常だ。友達はもっとひどいのに運転している。
運転は出来る。問題ない。
今も、これが繰り返される毎日です。
母の言葉は1つ1つすべて私の心に積もっています。
たとえ母には悪気がなくとも、母には記憶がなくとも、病気のせいだとしても。
投げつけられた言葉を忘れることはありません。
「病気のせい、病気のせい、母の本心じゃないはず、本心じゃないはず…」
呪文のように繰り返しつぶやいて自分に言い聞かせますが、なかなか上手くいきません。いつかこんな状態の母を許せる日が来るのでしょうか。今はそんな日が来ることを想像する事も出来ません。
車の鍵を取り上げたことは、後悔していません。
事故が起きてからでは遅いのですから。
ただ、この件をきっかけに私の母に対する気持ちが変化しました。言葉にするのは難しいのですが…
母からの電話に出るときには気合が必要です。深呼吸して気合入れてようやく通話ボタンが押せます。
薬飲んでね電話も、電話する時間が近づいてくると胃がキュ~っと締め付けられるような感覚になります。深呼吸を繰り返し、エイっ!!と気合を入れます。
そんな毎日です。
母と私の闘いの日々が今日も続いています。いつまで続くか先の見えない消耗戦…
一段と「介護鬱」の言葉が身に迫る今日この頃です。
「要介護1」
介護認定の結果が届きました。
「要介護1」
これが母の認定です。
介護度が認定されてもこれからどうしていいのか、どんなサービスを利用できるのか、母は介護サービスの利用を承諾するのか…
介護認定をされてもまだまだ乗り越えないといけない壁がたくさんあります。
介護認定の結果が出たので、包括支援センターの担当者の方へ、連絡すると今後の対応について、1つ提案を受けました。
それは、「認知症初期集中対応制度」通称「オレンジチーム」の利用です。医師、看護師、ケアマネージャーなどの専門家が、今後の介護サービスの利用について相談の乗ってくれ、適切なサービスの利用が円滑に進むよう手助けしてくれるとの事。
もちろん、この制度の利用を了承しました。
母が素直に介護保険サービスの利用を了解するわけもなく、介護認定を受けたものの、何も利用できずそのままになってしまう可能性もあり、すがるような思いでした。
担当者が決まり次第、母の面接を行うそうです。その際にも「健康調査」の名目で訪問の予定です。
介護認定を受け、主治医の先生にも報告しました。
そこで、母にはどんなサービスの利用が良いか聞いてみたところ、先生からは、「デイサービスに行って、お友達をたくさん作って、おしゃべりしたり、歌ったり、脳を使うのが良い。」とのお話を頂きました。
母は「は?デイサービス?」と鼻で笑うようにあからさまに嫌そうな顔をしていました。
母は、デイサービスとは、言葉は悪いですが、「ボケた老人が行くところ」という認識を持っており、自分が通うことになるとはまったく考えていないのです。
介護認定を受けたからといっても、何かが変わるわけもなく、利用できるサービスがあるとはいっても、母が受け入れるわけもなく。
これからどうしていけばいいのか…「オレンジチーム」の担当の方にお任せするしかありません。
健康診断の結果。
介護認定の面接の数日前、「薬飲んでね電話」をすると、
母の様子がなんだかおかしい事に気がつきました。
「話をしている気分じゃない」と言ってすぐに電話を切ろうとします。
いつもの無意味に機嫌が悪く攻撃的になっているのとはまた違う様子でした。
そこで、何とか原因を聞きだすと、「健康診断の結果が届いた。再検査の項目がたくさんあって、心配で心配で夜も眠れない」と。
いつもの「心配で心配で夜も眠れない」症です。
病院に行かなければいけない、と言いつつ、予約が○○日に入っている、とも言い、
要領を得なかったので、弟に様子を見に行ってもらいました。
すると、健康診断の結果が郵送された当日、1人で勝手に県立病院へ行き、
再検査の予約を取ってきていたことが分かりました。
再検査の予定がズラリ。それも平日ばかりでした。
県立病院ですから、それも仕方ないのですが、私も弟も仕事をしている身。
そうそう休むことは出来ません。
母は、病院へ行った事も予約を取った事もすっかり忘れていて、ひたすら「病院へ行かないといけない。心配で心配で夜も眠れない」と繰り返すばかりでした。
介護認定の面接のために、休みを取っていたので、面接の前に県立病院へ行き、
予約状況を確認してきました。母の状況をを説明し、土曜も検査をしている民間の病院を紹介してもらいました。
すべての検査が終わるのに約1ヶ月。毎週のように高速で4時間かけて実家に帰りました。
金曜の仕事終わりで夜中に高速を1人運転するよりも、早起きして朝に運転する方が
楽なことが分かり、土曜はほぼ毎週朝3時に起き、4時に家を出て帰っていました。
どうしても、土曜に検査が出来ない項目もあり、毎週のように会社を休まざるを得ず、
「介護離職」という言葉が頭をちらつくこともありました。
私の会社の上司は理解してくれており、休む事も仕方ないよ、と許してくれたので、
何とか仕事も続けていられますが、これから先、母の状態が悪くなっていけば、
仕事を続けていけなくなるかも知れません。
母は、記憶に問題があるものの、体は元気で、思い立ったらすぐに行動します。
後で発覚して、後始末に走り回る…そんなことがしばしば。
一言、相談してくれれば、と思うのですが、母曰く、「すべて終わってから報告しようと思っていた」と。
再検査がすべて終了した今でも、何かのスイッチが入るのか、何が引き金になるのか
分かりませんが、「健康診断の結果、再検査の項目があって、病院に行かなければいけない。心配で心配で夜も眠れない」と言い出します。
検診結果表に「すべて検査終了。問題なし」と書いても、「心配で心配で夜も眠れない」と、言います。
話をしていても、10分程度で忘れてしまうので、夜も眠れないハズはないのですが。
それでも、電話がかかってきて、「心配で心配で」を繰り返します。
検査が終わった事、すべて問題なかった事を説明して、「それなら良かった」と言って
電話を切りますが、5分とせずまた電話がかかってきて、「心配で心配で」と言うのです。そんな電話が4回、5回と続くのも珍しいことではありません。
いつになったら、「健康診断の結果」から開放されるのでしょうか。